政治といった場合、その縮図は地方政治にある。しかしそのことを意識している人は少ない。多くの人は政治を忌避し、街中でチラシ1枚すら受け取るのを避けている。経験的には20人に差し出してやっと一人が受け取る程度だ。つまりは関心をもたないため、この街で何人の議員がいるのかさえ解っていない。それで生活者・市民と言えるのだろうか。
ことほど左様に国政選挙では、主要政党の支持率も相対的に多数とはいえ、いまだに支持無し政党の数が最多です。このような状況が30年以上も続いている。自由と平等ならびに国民主権をことある度に強調するこの国だが、はたして先進国と言えるだろうか。
このような実情に対して、投票率を上げていくための官民による取り組みも過去から為されてはきた。しかし、根本的なことは、対症療法では無く、ひとり一人が政治に対する自覚を持つ文化を醸成することに本質があるように思う。
自覚を持てば、代議員を選ぶ基準や、街が抱えている今日的問題・将来への関心も自ずと高まるであろうし、政治に主体的に取り組もうという気概も出てこよう。
他方、立候補する側から見て見ると、地方選挙では地元のコネ。業者利害が優先される情実選挙が中心になりやすい。それだけでは無く、民間企業の給与水準から著しく高い歳費が支払われることから、議員職を有利な職業としてとらえる傾向も強い。その背景には、選挙費用が公費でまかなわれること、年間の議会開催は4シーズンの実質日数で60日程度、出張費用、政務活動費などは公費でまかなわれ、冠婚葬祭費は公選法で禁じられており、あらゆる種類の地元会合に顔出し露出をしておくことが仕事であり、議員の資質が問題とされることも無く、一時の人気投票で議員選挙を行う慣習が受け入れられていることがある。しかも一般企業ではあり得ない業績と関係無しの一律の高給取りという特殊な環境もある。
このためだろうが、議会は行政の追認機関化しており、行政のムダ使いがチェックされることが無く、少子超高齢化社会に於ける財政のあり方を無視した陥穽に陥る罠を回避できない実情がある。議員の本来の役割は行政のチェックと議員立法にあるが、過去数十年間を見ても実効的な議員立法が行われた痕跡は皆無に等しい。それでもなお、真面目におとなしく税金を払い続けるだけの市民・勤労者が行政を支えている構図はおかしいし、形式的に民主主義を標榜する市民の責任放棄という側面もある。
このような風潮に、棹を挿し、次の地方選挙で市民の意識改革を喚起し、投票すべき相手の明示化を市民自身が積極参加で行い、投票率を大幅に引き上げることを目的にHP・ブログの展開を図ってみたい。国政選挙に比べ、地方選挙の投票率は著しく低く、この点に市民全員が目覚めて欲しいものだ。
あすうらが目指す信条
〔地方行政〕
地方行政の第一の責任は、地域の勤労者、経済的弱者、そして母親、父親をはじめとする、すべての市民に対するものであると確信します。市民一人一人のニーズに応えるにあたり、行政の行なうすべての活動は質的に高い水準を維持するものでなければならない。
地方行政の第二の責任は、全ての市民に対して迅速かつ正確に適正なサービスを維持するため、行政管理費の公平公正な運用をはかる努力を怠ってはならない。このためにも、市民の情報公開請求には公正な機会を提供しなければならない。市民が日常に使用する公共施設・インフラは常に最善な状態を保ち、環境維持のための市民の要望に対して、注意深い対応に努めなければならない。全ての事業は市民のために健全な社会的利益を生むものでなければならなく、一部の関係者・事業者のものであってはならない。また、将来の逆境の時に備えて健全な財政蓄積を行なわなければならない。
行政の第三の責任は、全職員に対するものである。職員一人一人は個人として尊重され、その尊厳と価値が認められなければならない。職員は安心して仕事に従事できなければならない。待遇は公正かつ適切でなければならず、職員が家族に対する責任を十分に果たすことができるよう、配慮しなければならない。また、職員の提案・苦情が自由にできる環境でなければならない。能力ある人々には、雇用、能力開発および昇進の機会を平等に与えなければならない。
〔市民の責任〕
私たち市民の第一の責任は、有能で公正な行政運営管理者を選出する努力をしなければならない。そして、その行動が公正かつ道義にかない責任を伴っているか、予断を持たずに関心を持ち続けなければならない。
私たち市民の第二の責任は、私たち市民が生活し、働いている地域社会に対するものである。私たち市民は良き市民として、積極的に有益な社会事業および福祉に貢献しなければならない。そのための適正な租税負担は最低限の義務であり、市政に無関心であってはならない。社会の発展、健康の増進、教育の改善に寄与する活動に参画しなければならなく、このための研鑽を怠ってはならない。
私たち市民の第三の責任は、未来ある子孫に対するものである。私たち市民は失敗を恐れず、新しい考えを積極的に試み、慣習慣例を時代に即した形で変えていく努力を怠ってはならない。
これらすべての原則が実行されてはじめて、市民は正当な福祉を享受することができるものと確信します。