あすうら共和の視点でも触れたことですが、第1党の自民党とそれ以外の党との支持率の開きは何か、ということをあらためて考えてみた。

自由民主党(LDP)ほ、liberal democratic party、つまり自由で民主的という、何となく心地よい響きがあることから、また簡略名の自民は自国の民ないしは自国の民族性を表象した軽妙さを感じさせることに国民的になじみやすさがあるということではないだろうか。また、党としての歴史も長く安定感があることもあるだろう。

対する立憲民主党(CDP)は。constitutional democratic party、つまり憲法に基づいた民主的な党ということで、教条性の強い民主派・革新派のイメージが強い。また、社民、民主、自由党の流れが渾然と左派から右派まで混在し、分裂と合流を繰り返す不安定さからマイナスのイメージが払拭できていない。

国民民主党(DPP)はdemocratic party for the poeple、つまり立憲民主よりは、国民のための政治を強く意識するものの、奴隷解放宣言を発したリンカーンの有名な言葉(for the poeple)を想像させるより民主的なイメージを感じさせるものの、中道右派的で支持の広がりは無い。

これらの政党は、民主という概念で見れば、似たもの同士とは見えないだろうか。それぞれの仲間内で多少の色を付け、政治を党利党略で弄んでいるということはないだろうか。したがって、どこにも属さないという無党派層は無意識の内にそれを感じ取り、政治家の欺瞞性を察知しているが故に、政治を忌避しシニカルに見ているということではないだろうか。

ここで、民主の対域とも言える共和について考えてみたい。共和制を意味する「republic」(リパブリック)の語源は、ラテン語のレス・プブリカ(ラテン語: res publica)といわれ、「公共」のためとの意味を持ち、特定の「私的」のためではなく、共通の利益のために存在する政治体制をさすと考えられている。米国の2大政党の一つでである共和党が代表例だが、民主・共和両党は互いに競うことで政権循環の実を図ってきたと言える。

日本の場合は、3代遡ると皆圧倒的多数の農民の家系にたどり着くと言われるように、サラリーマン中心の社会であっても、国民性は支配されやすいDNAを抱えている。農民が地方から都市に出かけてサラリーマンとなり、サムライが官吏となり、大きな社会変革が明治以来起きても、お上依存の心根は中々消えず、経済活動の許認可においては、官僚の言われるままに従う慣習を当然のごとく引き継いでいる。

地方自治ということで見て見ると、少子化と超高齢化社会をむかえた時代には、共和という視点を新たに取り入れた組織があっても良いと考えるがどうであろうか。このような考えからこのブログでは、様々な視点から議論を展開していきたいと考えています。地域に住む人々が、等しく政治をそのような意味で捉えてくれれば、政治を忌避すること無く無党派が新しい党を産み育てていくことにも繋がるのではないだろうか。

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